エレカシブログ 俺の道

ロックバンド・エレファントカシマシ、宮本浩次ファンブログ

さきたま古墳群・忍城 〜そして、「のぼうの城」を勝手に100倍楽しむ旅〜

11月2日公開の映画「のぼうの城」の舞台は埼玉県行田市忍城(おしじょう)になります。
その行田市には「生命賛歌」の舞台にもなったと言われる、宮本浩次が愛してやまないさきたま古墳群があり
「じゃ行田市に行けば一挙両得ではないか」ということで行って来ました。


その前に「のぼうの城」の歴史事情、背後関係をざっとおさらい。

1590年、天下統一を目論む豊臣秀吉は、関東の雄、後北条家を滅ぼさんと、石田三成を総大将とし
およそ2万5千の兵を、北条家の支配下にあった忍城に差し向けた。対する忍城の守備兵はなんと500人。
総大将石田三成は水攻めによる攻撃を決断。
豊富な資金力を背景に石田三成はあっという間に28km(諸説有り)にも及ぶ堤を作り、城周囲の川の流れを変え
忍城を文字通り「水浸し」にしてしまう。
わずか500の兵で守る忍城はあっという間に陥落すると見られていたが・・・。

そして結論から言うと石田三成忍城を攻めきれず、豊臣秀吉が北条家の本拠地・小田原城を徹底的に攻撃し
世に言う小田原評定を経て北条家は小田原城を開城し降伏、それを受け忍城も降伏するというオチなのですが
この結果をもって「やはり石田三成は計算上手なれど戦下手、それにより関ヶ原も西軍は敗北した」という評価が
今も続いてるのですが、果たしてそうなのか。


ここまで忍城の話ばかりしていますが、実は忍城の水攻めにはさきたま古墳群が深く繋がっているんです。


ということでまずは行田市のさきたま古墳群を訪問してきました。
今回は行田市の観光ガイドであるHさんに二時間半ほど徹底的にガイドして頂きました。
以下Hさんは「Hさん」、僕は「サク」で。


さきたま古墳群に向かっていると、Hさんから待ち合わせ場所について連絡が入る。
「さきたま古墳群の駐車場の中でも、奥の方にある、一番古墳寄りの所でお待ちしています」。
待ち合わせの場所が既に「古墳寄りの場所」という非日常的な言葉のやりとり。まず日常の待ち合わせ場所としては使わない言葉でしょう。
非日常なやりとりに否が応でも期待は高まる。空は青く秋の風も吹く中、さきたま古墳群駐車場の「古墳寄りの場所」にて無事Hさんと合流、ツアースタート。



Hさん「ここからがさきたま古墳群となります」。



Hさん「これが丸墓山古墳です。高さは19mなのですが、行田市で一番高い山なんです」
サク「え、この古墳が一番高いんですか?そういえば今日初めて本格的に行田市に来たんですが、すごく平べったい地帯ですよね」
Hさん「ええ、行田市は川が多く、山は全く無いので、さきたま古墳群の中で一番高いこの丸墓山古墳が行田市で一番標高が高いんです。
オマエ(行田市の中で一番)デッケエナ・・・。by生命賛歌。



結構歩く。そりゃ行田市で一番高いんだもんなあ・・・。
なぜこの古墳に真っ先に来たかというと、丸墓山古墳は上記の忍城攻めの際、石田三成が本陣を置いた場所なのです。
つまりこの古墳に昔、石田三成の本陣があった。そしてさきたま古墳群大好きの宮本浩次もきっとこの古墳は登っているだろう。
石田三成宮本浩次という男・二人が頭の中でリンクする中、山頂(?)へ。


ここは説明板を見た方が早いと思います。

確かにここからだと街を一望でき、他に高い建物なんか無かった当時はお城も見えたんだと思います。
今も見えるかどうか、目をこらして、カメラのズームを目一杯アップさせて見てみる。

赤丸部分に本丸見えるでしょうか?ここは街を見下ろせる山なので「そりゃ石田三成もここに本陣置きますね」、一人で深く納得。



鳥瞰による当時のイメージ図。画像下の丸っこい部分が今いる丸墓山古墳で、真ん中が忍城
Hさん「石田軍は堤を築くのに、古墳の土とかも削ったので、今でも堤跡からは古墳の残骸が出てきたりするんですよ」。
古墳好きの宮本なら怒りそうな話ですが(笑)、でも反面「歴史ってのは権力闘争、何でもありなんですよ」とも言いそうだ。


丸墓山古墳を降りながら映画「のぼうの城」について聞いてみる。
サク「本当なら去年のいつ頃公開だったんですか?」
Hさん「10月か11月ぐらいですね」
サク「ということは、丸々一年遅れぐらいですね?」
Hさん「そうですね。水攻めのシーンがどうしても・・・。なので今回のは相当その部分を変えているようですね。
この行田市でも一部ロケが行われて、甲冑姿でみんな集まって撮影したみたいなんですよ」



今日は天気もいいせいか、家族連れの方が散歩がてらに古墳登っていたり、観光バスもいくつか止まっていました。
Hさんによると、映画の影響で今もお客さんは増えていて、公開後はもっと増えるんじゃ無いか、とのこと。


さきたま古墳群の中を歩きながら、つまらぬことを聞いてみる。
サク「この古墳ってのは夜中も入れるんですか?」
Hさん「頑丈に締め切ってるわけではないので、入れるでしょうねえ」
この古墳群を見てると、昼も迫力あるんですが、夜来たら多分それも凄い迫力で、宮本浩次なんかは古墳と車に嵌まっていた頃は
真夜中にこの古墳を眺め、感動し、「生命賛歌」が出来たんじゃないだろうか、そんなよからぬ想像をしていると・・・。
Hさん「古墳をこんなにオープンに公開して、直接登れるっていう古墳も結構珍しいんですよ」
サク「確かに。重要な古墳とかは柵とかで取り囲んで、登るのなんかとんでもないって所も多いですよね」
Hさん「そうなんですよ。それで行田市としては世界遺産への申請もやりたいらしいんですが、なかなか難しいでしょうね」。


さきたま古墳群を後にし、先行するHさんの車の後を追い、車で15分ほどの「石田堤」なるポイントへ。
市内を運転していると、確かに川の多さと、例えば「堤根」などという、堤に由来するであろう地名が多いことに気がつく。



ここも説明するのは難しいので、まずは説明板を。



写真奥には一説には28kmと言われる石田堤がそれこそ先ほどの古墳からずっとここまで続いているんです。
それで、この写真手前方向にもまだ続いている。
そして言い伝えによれば、水攻めになり、忍城が水浸しになる中、城主成田長親の家臣のうち、水練が得意な者がここまで来て
石田三成が作った堤を決壊させ、水攻め作戦が失敗になった。
つまりここが忍城水攻め、そして「のぼうの城」でもポイントとなる場所になるんです。



この橋はその名も「堀切橋」、まんまです。相当古い橋ですが、現役バリバリで使われています。
この近辺には石田堤が割と原形をとどめた形で残っており、江戸時代には松が植えられ日光街道となっていたそうです。
サク「その言い伝えが確かならば、この川も決壊時に作られた水流がそのまま川となったのかもしれませんね」勝手な想像です。
Hさん「はっは、そうかもしれませんね」。ホントに優しい方だ。



街道跡の石碑。「ただこれは復元で、当時のものでは無いです」とHさん。



先ほどの橋の反対方向にちょっと行くと、新幹線と堤跡。右側のゆるやかな三角山が石田堤で、写真手前方向に続いていた。
ですが近年になって新幹線が作られたため、その部分が削られている。
ただ削られている部分がちょっとした展示スペースになっており、なんと堤の断面図がそのまま公開されているんです。



写真にすると全く分からないんですが、石田堤の断面を切って、ガラスで保護してあるため、堤の内部がどうなっているか見られるんです。
写真右側の流線もその地層を再現していて、近くで見ると違う土で何層にも重ねられているのが手に取るようにわかる。
つまり当時は突貫工事で農民にお金ばらまいて作ったため、あちこちの色んな土を持ってきては積み重ねた。それで色んな土が何層にも重なっている。
これが今回の旅で一番面白かったですね。あらゆる人があらゆる土を人力で持ってきたという当時の苦労が一瞬にして蘇ってくるようで。



そしてまだ現存する堤の上に登り、堤の「その先」を撮影。道のようになっているのが石田堤の跡です。
さっきの断面図でのハイテンションのままカメラのファインダー覗いてると、堤の跡、秋の雲、左には稲刈り直前の田んぼ。
高圧電線や住宅街も相まって「これこそ『武蔵野』の光景だなあ」と一人で感傷に浸ってしまいました。


ここで話は最初に戻り、「忍城の水攻めが失敗したのは、石田三成がやはり戦下手だったためか?」。
現代の説ではそれは否定されつつあるんです。
Hさんによれば「忍城は力攻めで落とそうと思えば落とせた」。
しかし水攻めのエキスパートを自任する豊臣秀吉石田三成に何度も「忍城は水攻めにするべし」と念を押した書状が今も残っている。
そして石田三成が周囲に「忍城は水攻めと決まってしまっているため、諸将のやる気が出ない」という愚痴のような手紙も現存。
秀吉の家臣である浅野長吉が忍城責めで30人ばかりを討ち取った、という報告を秀吉にするも、「そんな戦はいいから、忍城は水攻めに」と
さらに念を押す書状も残っている。とにかく秀吉が現場も見ずに「忍城は水攻めにするべし」と家臣に指示していた様子が窺える。


この時期、豊臣家は関東から西を掌握し、残すは関東の北条家と奥羽地方
資金的には余りに余りまくっていたはずで、秀吉のパフォーマンス好きも相まって、「忍城は派手に水攻めにして、天下に威光を放つべし」となり
総大将である石田三成に指示した。しかし結局は上手く行かなくなり、その責任をなんとなく石田三成に押しつけた。
そして関ヶ原後の江戸幕府による「石田三成に対する評価を貶めるべし」という策略のもと、今に至るも「石田三成は戦下手」というイメージが
現代においてもまだ植え付けられている。
最新の歴史書による分析や、未だに残っている手紙をもとに考えると、そんな結論になりました。


この新幹線高架橋下にひっそり展示されていた手紙の内容はこちらに。「豊臣秀吉朱印状1」「朱印状2」「朱印状3」「榊原康政文書」。


さきたま古墳群から石田堤まで終わりました。以後「忍城」編となります。


三ヶ所目の訪問地となる忍城へと。またもやHさんの後をくっついて、車で10分ほど。



Hさん「この土塁は江戸時代のままなんです。忍藩はお金が無くて石垣に出来なかったんです(笑)」
サク「はははは(笑)」
Hさん「右側にある建物は今は学校なのですが、当時はここで藩政を司っていたんです」。


そんな説明を聞いていると、左側に槍のようなものを持った若い男が二人。

また渋い服装してるから、剣道部かなんかの帰りなのかな、それにしても渋すぎだよな、と思っていると・・・。


Hさん「お、エンブ何時から?」
二人「2時半からです。今も写真いいですけど、そっちでも写真どうぞー」
Hさん「じゃ、これから一周すればタイミングいいですね。頑張ってね。(僕に向かって)これ見ていきますよね?」
サク「エンブ?はい。行きます」。この時点ではよく分からず。



現在の忍城の目玉、三層式櫓(本丸ではない)。
サク「江戸時代も三階櫓だったんですか?」
Hさん「三階だったようです、こんなに立派では無くて、木造でもっとしょぼかったみたいですね(笑)」
サク「お城は結構そういうパターン多いですよね(笑)」
これは写真的には大失敗で、青を多く入れる設定のまま撮影してしまったため、実物よりも青くなってしまってます。



こちらが本来の色。
Hさん「手前に橋を入れるといい写真になると思いますよ。パンフレットとかこういう構図が多いですね」。
サク「確かにこれだと絵になるし、構図的にもいいですね」。エンブの時間が近づいてきたので手短に。



門をくぐると明らかに何かが始まる雰囲気。人も多く、ちょっとした緊張感。


「エンブ」とは「演舞」のことで、忍城おもてなし甲冑隊による槍や刀を使ってのパフォーマンスでした。
Hさんからは「全部見なくてもいいですよ」と言われていたのですが、写真撮りつつ結局全部見ました。
http://www.oshijo-omotenashi.com/
裏方のスタッフさんにはやけ蔦谷好位置さんに似た方もいらっしゃいました(笑)。



演舞を見て、忍城跡にある郷土博物館に入ろうとすると、横に鐘が。
Hさん「これは本当に鳴らせる鐘で、大晦日に108人、煩悩の数だけ抽選で一回ずつ鳴らせるんです」。
これは鳴らしてみたい、けれど競争率高いんだろうなあ。親子連れが楽しそうに見ていました。しかしいい天気。



行田市忍城はやはり「のぼうの城」推しで、ポスターもバッシバシ。現地だと「こんな埼玉観たことないッ」のロゴ入りVer。



入場料200円を払って入ろうとすると、マッチ棒何千本かを使って作られたという現在の忍城跡がありました。子どもたちに人気。


ここから先は撮影禁止のため、写真無し。


さきたま古墳群から忍城攻防戦、江戸時代の忍藩、足袋の名産地として知られた戦前の行田市、戦後の行田市の展示が豊富にありました。
ただ、古墳についてはさきたま古墳群の博物館に沢山揃っているため、こちらにはあまりないようでした。
古墳好きで発掘されたナマの物を観たいという方はさきたま古墳群の博物館をオススメします。


その博物館からは先ほどの櫓につながっており、三階部分から「逆に」丸墓山古墳を見ようとするも無理でした。
山(古墳)から城は見えても、城から山というのはどうも難しいようです。


博物館を出て、行田市で推しているB級グルメゼリーフライ」を買いつつ、行田市の旅はお終い。

Hさん曰く「そんなに美味しい食べ物じゃないです(笑)」。ただしこれで150円というのはお買い得だと思います。
足袋を作っていた当時の女中さんが食べていたようなコロッケのような食べ物で、ローコストハイカロリーとのこと。


屋台のおっちゃんが「来月20日行田市民向けに『のぼうの城』先行上映会やってくれるんだけど、定員300人に一万人来てるらしい(笑)」
サク「野村萬斎さんが舞台挨拶に来ると、またそれ目当てでファンの方来そうですね(笑)」
「そうそう、それでその会場は行田市の文化会館とかだから音が悪いんだよ。だから普通に映画館で見た方がいいね(笑)」。


本文には書けなかったのですが、Hさんから聞いた話で興味深かったこと。
・「石田三成が攻めてきたとき、実は本来の城主は小田原城に援軍に行っていて、代わりの城主を務めていたのが
  甥の成田長親で、この人が結構変わっていて、石田堤を壊すときに味方を鼓舞するために踊っていたとか。
  それでつまり「でくのぼう」それが「のぼうの城」になったんです」
・「堤を作るとき、石田軍はお金があったので、土俵を持ってくる農民に、昼間は銭六十文と米一升を引き替えにあげたんですが
  夜に土俵を持ってきた農民には銭百文と米一升だったんです。深夜割り増しですね」
 こうすると、昼と夜に持ってくる量がバランス取れて、作業的にはスムーズに進むはずなので、これが石田三成の発想ならば
 やはり石田三成は優れた武将だったことの証左なのかもしれません。



二時間という事前の約束にも関わらず、結局二時間半にわたり徹底的に行田市の三ポイントをガイドして下さったHさんに大感謝。
今まで本やネットで「少し分かったつもりでいた」忍城攻防戦も、現地の古墳に登ってみて、そこからお城を見渡してみて
そして石田堤で「決壊されたとされる」橋も見て、堤の断層まで見ると、百聞は一見にしかずというのは本当なんだな、と改めて思いました。


これはこれから見るであろう「のぼうの城」も相当リアリティ持って見られると思います。
現地で楽しませてもらって、多分映画でも楽しませて貰って、そしてラストは主題歌で激烈に楽しませて貰って(笑)。
公開がより一層楽しみになりました。Hさん曰く「公開前の今はまだ混んでないんじゃないかな」ということで
実際に「のぼうの城」の舞台を楽しみたいという方は今がチャンスだと思います。



埼玉から東京への帰り際、荒川を渡るところに岩淵水門がありまして、こちらもぼんやりと撮影してきました。



川の向こうは「埼玉の空」。



川のこちら側は「東京の空」「赤羽の空」。



岩淵水門。
散歩する人、ジョギングする人。楽しそうにお酒を飲む人、ボーッとしてる人。空は秋の雲、夕暮れが近い。
頭の中ではまんま「武蔵野」「赤き空よ」「歩く男」「暮れゆく夕べの空」あたりが再生されていました。


iPhoneによると移動距離169.94km(勿論車も含む)、万歩計によると12653歩の旅。
過去の人の叡智や奮闘の跡、そして現在の人の暖かさに触れることが出来ました。
さすがに疲れ切りましたけど、さらば今日の日よ、超満足してるぜ。(C)うれしけりゃとんでいけよ。







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